昭和42年12月24日  朝の御理解


 「生神金光大神 天地金乃神 一心に願え おかげは和賀心にあり」、おかげは和賀心にあり、そこんところだけをこう、力を入れては本当のおかげにならない。生神金光大神がまず分からなければならない。まず天地金乃神の実態と申しましょうか、それが分かってでなからなければ天地書附の内容が分からない。ただ、おかげは和賀心にあるのです、一心に願うのは和賀心だ、どうぞどうぞ私の心に和賀心を下さいというような事は、どうぞどうぞおかげを下さいという事と同じ事。おかげを頂き、おかげおかげという事になる、ですからその、一心に願う焦点が違うてくるのである。何でもやはり根本的なところから、まず基礎から分からせてもろうて、身に付けさせて頂くという信心にならなければならないと思う。どうでしょう、生神金光大神とはどういうような事をいうのか、生神金光大神とはどういうようなものかという事を誰でも知らなければいけません。
 その生神金光大神が高唱を受けられた天地金乃神とはどういう神様なのか。「庭の口に出てみよ、空が神、下が神」と、なるほどそう仰っておられますよね。「神は天地の守りじゃから、天地から離れる事はできん」とも仰っておられる。だから、そういうような神だとただ漠然と言うておったり分かっておっただけでは、天地金乃神の心は分からない。もっと直にその天地金乃神を頂き感じれるために、まず金光大神天地金乃神、まあ天地書附の一番初めに分からなければならん事は生神金光大神である。同時に天地金乃神なのである。でなかったら、どこへ一心を持っていきようがないじゃないか。漠然としたところへ一心を立てたら、はっきりしてそこへ一心を持っていけて初めておかげが受けられる。
 ここでは馬鹿と阿呆で道を開けとこういう。いかにも馬鹿になる稽古、阿呆になる稽古のごと言う。決してそうじゃない。馬鹿で阿呆で天地金乃神が分かるはずがない。生神金光大神が分かるはずがない。やっぱり利発にならなければならん。才をたてなければならん。ために勉強が必要なのだ。
 お芝居で(腹芸?)というのがある。忠臣蔵なんかを見ますと、立花左近と大石内蔵助の出会いなんかは、それこそ本当お互いが顔と顔とを見合わせて、長い長い沈黙が続く。そしてその沈黙の中にお互いの心を、が交流する。見ておっても素晴らしい。ですから下手な役者じゃできん。いわゆる(腹芸?)のできる役者、名優っていうたら(腹芸?)のできる役者。それに私は、(腹芸?)のできる信心にならなければいけんと思う。というて、初めからじーっと黙って相手の顔ば見ておるというような稽古じゃできんのである。それで交流するはずはないのである。腹芸のできる前提が必要なのである。やはり稽古である。
 無言実行というような事を言う。黙って行じろ、黙って行えと。その黙って行う前に、私は有限実行にならなければだめだと思う。今日は私がその事を感じた時でしたね、おいさみがございました。おいさみがありました。私共が生神金光大神とは、天地金乃神とは、お前達何ば拝みよるとじゃ、お前達の信心とはどういう信心じゃ、金光様の信心たい、(言うた?)だけではいけん。金光様とはどういう神様なのか、そこに生神金光大神の説明が必要なのだ。教祖の神様は初めから生神金光大神じゃなかった。初めから天地金乃神を拝みよったんじゃなかった。そこんところが分からなければ金光教の信心は分からない。そこから説明しなければみんなも納得がいくはずがない。とにかくお参りしてみなさい、有難いですよ、金光様金光様でよかですよというような信心じゃつまらん。まず天地金乃神、まず生神金光大神、天地書附がお道の信心のいうならお題目である。仏教の南無阿弥陀仏と同じ事。法華宗の南無妙法蓮華経というなら同じ事。そういう例えば性質のもの、それにお互いが、一心に願いおかげは和賀心にあるとこう、おかげは和賀心にあるところばっかりをその、思うておる。それでは本当のおかげが受けられるはずがない。どこへ持ってって一心を立てていいやら分からん。その焦点である一心を持っていくところが生神金光大神である。その生神金光大神がだからまず分からなければいけん。だから私は馬鹿じゃいかん、阿呆じゃ分からん。まず私はいよいよ勉強が必要なのだ。金光大神を紐解かなければならん。教学をしなければならん。そこのところの勉強もできずただ拝むだけ。なるほど不思議に一生懸命拝みよると、何とはなしにその、有難いものが頂ける事だけは間違いない。けれどもそういう有難いのはもうあっという間に消えるのです。夕べの御理解じゃないけれども、飲んだ飲んだである。飲んで有難いというのではなくて、飲まんでも有難いという神様を頂かなければいけんのである。
 馬鹿と阿呆になる前に、本当に、あの人は利発な人だと、頭がいい、なかなか勉強ができると、その勉強の味わいも分からずしといて馬鹿と阿呆になる稽古をいっぺんしたんじゃおかげにならん。場合によっちゃあ目から鼻に抜けるような賢さが必要になる。それが私は、そこからです、馬鹿と阿呆になる稽古をさせて頂いて本当な事になる。一足飛びに馬鹿と阿呆になったら、本当に人間がつまらなくなってしまう。低俗してしまう。勉強しなければいけません。金光様の御信者はどうも勉強不足である。
 こうやって話してまいりますと、昨日の朝の御理解の何か反対のような感じがいたしますね。昨日の朝の御理解は、本当に馬鹿の一つ覚え、一つでもいい、ご地内をみだりに汚すなよと、そのこと一つが本当に身についていったら、おかげが受けられる、お徳が受けられる。まあそんな御理解でしたですけれど。何故、大地をみだりに汚したらいけんのかという事が分かって、私は汚さんというのでなからなければならん。いつも先生は、馬鹿と阿呆になれ、馬鹿と阿呆になれと言われるが、今日の御理解は違うような感じがするですね。けれども馬鹿と阿呆になる、してもらう前提として、私は利口にならなければいけん。勉強しなければいけない、もう馬鹿と阿呆になると勉強は必要ないじゃないか。その勉強ができて、いうなら、学問なら学問の道を一通り分からせてもろうて、いわゆる無学の百姓にかえらなければいけない。そして馬鹿と阿呆になる稽古をしなければならん。もうそれこそ言う事ならどげなこってん(言いならう?)。どういう例えば難しい問題を持ってこられても、信心の上でですよ、それに応えができれる信心、そこが分かって私は、無言の実行ができれる信心に、まず有言実行から、まあ神様が知ってござるから、もう言わんでも、そこんところを通らせてもろうて、私はね、いわばその、(弁術?)もさわやかに、自分の意思が十二分に発表できる、お話ができれる稽古も必要という事になる。お話を聞いておったらみんながなるほどなるほどと合点するだけの内容を、私はまず身に付けていかなければならん。
 
(途中途切れ)
 
 ・・・信心、どのような小さい、いわばデリケートな演技でもできる、そして初めて腹芸ができるのである。いわゆる腹芸のできれる信心、そこは目指すところであって、目的はそこであってもその過程として、今日私が申しますようなところを一つわからせてもらう。ためにはまず一つ、天地書附の一番初めにお唱えさせてもらう生神金光大神天地金乃神を分からなきゃいけません。それも教学的に、またはそれを実感の上に心の境地を、こういう境地を生神金光大神というのであろうか、天地金乃神様の心とは実態とは、こういうものだという事を把握できて、そして一心に願えである。一心に願うという事が難しい。おかげはという事が難しい。いよいよ和賀心にあるという事などは、それを自分のものにする為にはもういよいよまた難しい。そういういうなら難しい内容を持った天地書附である。それを私共はどうも一心に願えおかげは和賀心にありというところばかりに焦点を置きたがる。焦点を置いて、本当にそこんところを分かりゃええけれども、分からんなりに、いわゆるおかげを頂くために和賀心にならせて下さいだけ、これではいつまでたっても分からん。おかげが目的だから。おかげを頂く為にどうぞここで和賀心にならにゃならん、という事ではね。まず和賀心が本当に分かりゃおかげは言わんでもついてくるのである。
 まあいうならば、今日朝から学生会の皆さんが、青年会の方達が多いから、今日の今朝の御理解を頂いたのかも知れません。そのまだ信心の基礎を土台を本当なものにしていかなければならない時に、いっぺんに有難くなるなんてそげな馬鹿げた話があるはずがない。もしあるならば、それは飲んだ飲んだである。それはお酒に酔いしれておるような有難さである。そんなものがもし若い学生さんの方達に、頂き、頂きよったと、というならそりゃあ実に危険な事である。
 これは合楽の前身であるところの椛目の草創期時代の事を思うてみると、それを感じる。若い青年、まあ今でいうなら学生会、または少年少女会の人達がですね、有難かったんですからね。もうこの人は信心の天才児というような感じだったけど、みんなおかげを落としていきました。基礎のない、土台のない信心がいかに危ないものかという事が分かります。まあ辛うじて残っておるのが今嘉朗さん達ぐらいなもんじゃなかろうか。他の者はみんな振り落とされてしもうておる。いわゆる信心を、もうそれだけでお参りしてしもうておる。少年少女会のもんが御神眼頂いたりしよったんじゃからね。私の教導不行き届きももちろんだけれども、というような信心がいかにその、まあいうなら、本当なもんじゃないかという事が分かります。本当に基礎というものが大事、信心はしっかり基礎を作らなければならない。そして勉強しなければならない。そして信心させて頂いて、本当に信心させて頂いて利口にならなければいけん。利発にならなければいけん。チンち言やあカンちゅうごとならにゃいかん。そして後に私は腹芸といわれるように(なる?)。そして後に無言実行である。本当に生神金光大神が分かり、天地金乃神が分からせて頂いて、そして御神眼であり、御霊徳であり、御神徳である。私はそれは本当に思う。合楽の信心とは、金光様の信心とはと、それが本当に誰でも納得のいく、合点がいく説明のできれる、まずそういう信心を身に付けなければいけん。まず教学、まず金光大神の勉強、天地金乃神の探求、飲んだ飲んだで有難うでもなりよったら大変である。本当にしっかり心してですね、本当の信心を身に付けていきたいと思うですね。
 どうぞ。